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(医)太一会
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母の死と通導散

投稿日: 2017年05月28日

小太郎漢方研究2017年消夏随筆に寄稿した文章を転載します。写真左は護摩祈祷に行った雪深い金峯山寺蔵王堂、右は母の葬儀。

パーキンソン症候群と心不全、度重なる骨折で闘病中であった母が2月に逝った。何度も前世で会っており、魂は永遠であるとわかっていても、母の死は何とも寂しい。親子関係が良好だったのでなおさらである。漢方に理解のある先生が多い中堅病院に入院させたかったが、父が縁故にのみ頼って選んだ漢方に理解のない整形外科病院に長く入院させ、手出し出来なかったのが心残りではある。昨年夏の土用の真っ最中、圧迫骨折の破片で脊髄損傷となり、日赤に託されたがベッドの空きがなく、京都の病院で緊急手術となった。母の天中殺月で時期も悪く、なんとか病院の氏神様にだけは参拝、幸い経験豊かな先生のおかげで一命をとりとめた。しかし、大手術と術後の京都からの転院ですっかり消耗し、去年の春の画像では異常がなかったのに、年明け、卵巣癌がすでに肺まで蔓延していた。

お別れが近づき、吉野金峯山寺に2回、護摩祈祷をお願いした。以前、奈良の吉野から来る患者さんの母親が危篤の時、金峯山寺の身代わりお守りを腰に結わえ付けていたが、2回生還して、不思議にも2回とも身代わりお守りが失せた、最後は護摩祈祷で楽に逝けたと聞いていたので、母が危篤の時は母の実家の先祖にご縁のある吉野にお参りしようと決めていた。1月の雪深い日、行って頂いた1回目の護摩祈祷で、母は目覚ましく回復、前向きな気持ちになってくれた。パーキンソン症候群はパーキンソン病とちがって流行りの西洋薬も効きにくく、認知症になることもあるらしいが、最後まで認知症は出なかった。若い頃、大家族の家事や親戚付き合いで苦労した愚痴も出ず「ありがとう、ありがとう」と言っていた。

近くの急性期の病院に入院したが母の病室は新生児室の前だった。その病院で、母は生後間もない私の兄を亡くしていた。「産気づいた妊婦さんが重なってな、私の児が一番後回しで泡を吹いて死んでしまってん」と母は無念そうに語っていた。「そんな昔のこと、ここではゆうてないで」と健気に母は言う。デリカシーのない父は病院長が知り合いだからここに置いてもらい、看取ると言い張ったが、今回ばかりは急性期の忙しい病院だから充分なケアは難しい、と私が療養型の小さな病院に転院させた。療養型の穏やかな病院は漢方に理解があり、補中治湿湯に少量の桃仁を入れて少しずつ飲ませた。

いよいよ状態が悪くなった2月の雪深い日、吉野金峯山寺に2回目の護摩祈祷をお願いした。そのおかげか苦しみが長引かずすぐに逝った。食事が取れなったのは1日足らずだった。実邪が旺盛で呼吸が苦しく、あと数日かと思われた日、便も出ないというので、手持ちのコタロー通導散エキスを少量の水で溶いて飲ませた。こんな状態の母にきつい瀉剤を飲ませるのは気が引けたが「実邪が旺盛の時、通導散で命を懸けて瀉せ、楽に死ねる」という恩師の言葉を思い出し思い切って飲ませた。今までの患者さん達でも経験があったからである。(普段は通導散に桃仁、牡丹皮を入れて原末にして飲んでもらうことも多い。)翌朝、母は安らかに逝った。療養型の病院に転院して10日足らず、やっと漢方を飲ませてもらえ、最後に母に飲ませたコタロー通導散エキスは忘れられない処方となった。

葬儀の際、母が用意してくれた和服の喪服を着ようと和ダンスを開けると、学生時代の几帳面に書き込んだノートと父が旅先から出した絵葉書と一緒に、亡くなった兄の母子手帳が出てきた。あの新生児室の前で母を看取らなくてすんだのは戸籍にもなく、戒名しかない兄の50回忌まで母が供養したからか、と仕付け糸のかかった喪服を出しながら思った。

夏の土用が近づき、昨年、診療を終えてから京都の病院まで母を見舞いに通った日々が思い起こされる。病院の道すがら大手術をせずにこのまま看取ったほうが楽かもしれないと思い悩んでいると涙が出てきた。おりしも山から黒い雲が流れてきて夕立の大雨が降ってきた。身も心もずぶ濡れになりながら母のいる病院への道を急いだ。そんな思い出にひたっている私をそばの写真の中から笑顔の母が見つめてくれている。